ウイスキーには樽で熟成するときに原酒を飲んでいる「天使」と「悪魔」が潜んでいます。
それは、「天使の分け前」と「悪魔の取り分」と呼ばれるものです。
一見すると意味が分からないこの2つの言葉は、どちらもウイスキーの樽熟成で生まれた専門用語。
しかも後者は、アメリカのバーボンメーカーが実際に商品化しています。
今回は、樽の中で起きている「天使と悪魔の仕事」をのぞいてみましょう。
天使は毎年、分け前のために樽を訪れる

ウイスキーが樽の中で眠っているあいだ、天使は毎年こっそりと味見に訪れます。
その証拠に、熟成を終えた樽の中身は、仕込んだときよりも少しだけ減っているのです。
天使が持ち去ってしまう現象のことを「天使の分け前」といいます。
スコットランドなら平均で毎年2~3%ほど、消えていくそう。
温暖な地域や熟成環境によってはそれを大幅に上回ることもあります。
安井中には、年間10%以上も持ち去ってしまう吞兵衛な天使もいるようです。
天井に漂うアルコールの香り。それと熟成庫いっぱいに広がる甘い芳香……
熟成中に漂うウイスキーの甘い香りから、職人たちは、この現象を「天使が飲んでいる」と想像したのかもしれません。
ところが、天使はただウイスキーを飲み逃げしているわけではありません。
その小さないたずらは、ウイスキーが樽の中で長い時間を重ねてきた証でもあるのです。
天使が飲むほどにウイスキーが育つ
天使がウイスキーを味わうほどに、人の手に渡る一杯は少しずつ減っていきます。
本来なら、失われていく原酒を喜ぶ人はいないでしょう。それでも人々は、この現象を「天使の分け前」と呼びました。
なぜなら、天使はただ奪うだけの存在ではなかったからです。
もちろん、天使が持ち去ったウイスキーが戻ってくることはありません。
その代わり、樽の中では、おいしい一杯になるための時間が静かに積み重なっていきます。
ゆっくりと季節を重ねながら、残されたウイスキーは少しずつ表情を変え、深みをまとっていく……。
職人たちは、その時間と引き換えの代償を「天使への分け前」と呼んだのかもしれません。
もっとも、ウイスキーをおいしくしているのは、天使そのものではありません。
天使が樽を訪れているあいだにも、樽の中では、おいしい一杯になるための”小さな奇跡”が静かに積み重なっているのです。
- 原酒が樽材の内部へ入りこむ
- 樽由来の香りや色を取りこむ
- 香味成分がゆっくりと反応する
- 蒸発によって残った成分が濃縮される
天使はウイスキーを育てる職人ではなく、おいしい一杯へ育つまでの「時間代」を受け取る存在なのかもしれません。

では悪魔は何を奪うのか?

ところが、樽の中で起きているのは蒸発だけではありません。
ウイスキーは、樽材そのものにも吸収されているのです。この現象は「デビルズカット(Devil’s Cut/悪魔の取り分)」と呼ばれています。
天使の分け前が蒸発によって空気中に失われるのに対し、悪魔の取り分は樽の中に留まっているという違いがあります。
では、樽のどこにウイスキーが留まっているのでしょうか。
悪魔はウイスキーを樽のなかに隠していた
悪魔は、奪ったウイスキーを遠くへ持ち去ったわけではありません。人の手が届かないよう、樽材の奥深くへ染み込ませていたのです。
樽は呼吸をするだけでなく、熟成中のウイスキーを少しずつ木材の内部へ吸収しています。
ウイスキーは長い熟成のあいだ、原酒と樽材の間をゆっくりと行き来する……。
このサイクルこそがウイスキーにさらなる深みをもたらします。しかし、樽材に染み込んだウイスキーは必ずしもすべてが戻るというわけではなく、一部はそのまま樽の中に残り続けるのです。
安井悪魔がウイスキーを隠した場所は、ウイスキーにバニラ香やキャラメル、樽香を与える場所でもあります。
空へ消えたものを「天使の分け前」と呼ぶなら、樽へ隠したものが「悪魔の取り分」。
そんな対照的な意味を持つ言葉がウイスキーにはあるのです。
悪魔からウイスキーを奪い返したジムビーム
悪魔が隠していたウイスキーは、実は完全に失われたわけではありませんでした。
この”失われたウイスキー”に着目して、
「本当に取り出せないのだろうか?」
と考えたメーカーがありました。
それが、アメリカを代表するバーボンメーカー「ジムビーム」です。
ジムビームは、6年熟成させたバーボンを樽から払い出した後、空になった樽を独自の方法で攪拌。木材の内部に残っていた液体と、そこに含まれる樽由来の風味を引き出しました。
その抽出液を長期熟成したジムビームに加え、2011年に発売したのが『Jim Beam Devil’s Cut』です。
「デビルズカット(悪魔の取り分)」も「天使の分け前」と対照的な表現としてジムビームがこの商品とともに広められました。
まさに、悪魔に奪われた取り分を取り返した一本といえるでしょう。
安井イメージとしては、スポンジに染み込んだ水分を絞り出すような感じだそうです。
天使と悪魔、取り分が多いのはどちら?

| 天使の分け前 | 悪魔の取り分 |
|---|---|
| 空気中へ蒸発 | 樽へ吸収 |
| 毎年2〜3%程度(スコットランド) | 樽ごとに異なる |
| 熟成に必要 | 基本的には回収不可 |
| Angel’s Share | Devil’s Cut |
スコットランドでは、年間2%前後が一つの目安とされています。ただし、天使が毎年きっちり同じ量を飲んでいくわけではありません。
蒸発量は、気温や湿度、熟成庫内の位置、樽の状態などによって変化します。天使の取り分は、意外と気まぐれなのです。
悪魔も同じです。どれほどの原酒を樽材の中へ隠すかは、その樽によって異なります。
デビルズカットは、とりわけバーボンの熟成で生じやすい現象です。
バーボンの熟成庫では、夏と冬の大きな温度差によって、樽材が膨張と収縮を繰り返します。
暖かくなると原酒が木材の内部へ入り込み、気温が下がると、樽由来の成分を伴って再び押し戻される……。
こうして、バニラやキャラメル、焦がしたオークを思わせる風味が育っていきます。
安井他にも、新樽のほうが樽材に原酒が染み込む余地があることも理由の一つですね。
つまり、悪魔が原酒を隠す樽材の内部は、同時にバーボンの味わいを育てる舞台でもあるのです。
どちらも”樽熟成だからこそ”生まれた言葉

天使と悪魔。どちらも樽熟成を行うからこそ生まれた現象です。
木でできた樽は、水分やアルコールを蒸発させ、原酒を内部へ染み込ませながら、ゆっくりと呼吸を続けます。
ステンレスタンクなら天使も悪魔も存在しません。
さらに、樽熟成には気まぐれな一面があります。
すべての樽が同じように熟成が進むわけではなく、時を重ねるごとにそれぞれの個性が育ち、異なった味わいへと仕上がっていくのです。
一つとして同じ樽は生まれないといわれるほど、神秘的な樽熟成。
その不思議な営みを言い表すために、「天使の分け前」や「悪魔の取り分」といった詩的な言葉が生まれたのかもしれません。
最後に
ウイスキーを選ぶとき、何を基準にしているでしょうか。
「何年熟成されたのか」「どのような樽が使われたのか」といった情報に、まず目が向く人も多いはずです。
しかし、その熟成期間に樽の中で何が起きていたのかを知ると、いつもの一杯も少し違った角度から楽しめるようになります。
「天使の分け前」と「悪魔の取り分」は、どちらも樽熟成の過程で生まれたものです。
次にウイスキーをグラスへ注ぐときは、樽の中で働いていた天使と悪魔のことも、少しだけ思い出してみてください。


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